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Interview

全力でバスケットボールに向き合った学生時代

― 現在バスケットボールに関する仕事に携わっている船岡さんですが、いつ頃からこのスポーツに興味を持ち始めたのですか?
 出会ったのは小学校4年生の時です。友だちに誘われて見学に行った地元のミニバスケットボールチームの楽しそうな練習風景に惹かれ、両親へ相談もせずにその場で入部を決めました。週3回の練習に励み、市の大会ですが優勝した時はとても嬉しかったです。
― その場で入部するほど魅了されたのですね!
 中学でもバスケットボール部で毎日練習に励んでいて、夜には他の習い事もしながら、クラブチームの練習へ週2回は行っていました。しかし2年生の時、左膝に前十字靭帯断裂、という怪我を負ってしまいました。手術を先延ばしにして温存し、何とか引退前最後の大会には出られましたが、県外の強豪校への進学を諦めて地元の高校に進学しました。怪我をしたことは私の人生における初めての挫折でした。
― 辛い経験でしたね。高校でも部活は続けられたのですか?
 高校でもバスケットボール部に入ったのですが、2年生の時に同じ怪我を逆の膝、右膝でも負ってしまいました。正直、またか・・・と絶望しました。やっと感覚が戻ってきた頃だったので。それでも大好きなバスケットボールを諦めるという選択肢はなく、大学に進学してからも手術後のリハビリを続けながら、女子バスケットボール部に所属しました。しかし大学2年生の途中、最後の手術のために地元へ戻った時、医師から競技を続けるのは厳しいと宣告され、中学生の頃からお世話になっている理学療法士の先生に『選手以外にも関わる道はある』と言われたことで一度バスケットボールから離れることを決めました。
― 怪我が原因とはいえ、バスケットボールを辞めることは大きな決断でしたね。
 部活を辞めようと自分の中で決めたちょうどその時期に、六大学の海外遠征があり、マネージャーとして同行することを依頼されました。ここまでは自分の役目を全うしようと思い、遠征のためホテルに前泊していたその夜に、男子バスケットボール部の監督からお電話がありました。内容は男子部のマネージャーのオファーで、ちょうどバスケットボールから離れることを決意したタイミングでの連絡にとても驚きました。男子部は練習量が非常に多い様子を間近で見ていましたし、生半可な気持ちではできないと悩みました。しかし、このタイミングも何かのご縁で、バスケットボールに関わり続けたいという気持ちが勝り、そこから男子部のマネージャーとしての生活がスタートしました。
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― マネージャー、主務という新しい形でバスケットボールに携わり始めたのですね。経験の中で印象に残っていることはありますか?
 今振り返ってみても、これまでの人生で最も過酷で、でもとても勉強になったのがマネージャー(主務)を務めた2年と少しの間です。コーチが選手に求めることは学生に対するレベルを超えており、それはマネージャーとしても同じでした。私たちスタッフは、いつ何を言われてもすぐに対応できるよう複数の選択肢を持ち合わせておくことが必要でした。中でも私が一番印象に残っているのは【謝って済むことはミスではない】ということ。何か失敗して怒られて謝ってそれで終わり、ということは一切なかったです。ミスをした時にただ謝るのではなく、それをどう対処するのか、というリカバリー力は徹底的に鍛えられました。大変なことは多かったですが、それ以上にコーチ陣、選手たちと過ごす毎日はとても楽しかったです。辛い練習を共に乗り越え、試合で一喜一憂し、4年生のときにインカレで準優勝してくれたことは本当に幸せでした。

将来の夢の変化とアナウンサーとしての歩み

― アナウンサーという職業を意識し始めたきっかけは何だったのですか?
 中学生の頃から国語が好きだった私は、大学では文学部に進学して国語の教員免許を取得し、将来は地元に帰って教師になるつもりでした。しかし、バスケットボール部のマネージャーとして活動する中で、スポーツの世界でスポットライトが当たる選手はほんの一部であるという現実を目の当たりにします。全国から集まってきた選手が試合に出られないだけでなく、練習にも参加できない。バスケ部だけでなく体育会の横の繋がりから他競技の選手との交流もあり、それを切実に感じていました。そこから、選手たちの努力や、そこに至るまでの過程など、試合結果だけでないスポーツの魅力を伝えたいと思い、アナウンサーという職業を志しました。
― アナウンサーとしてのこれまでの経歴を教えてください。
 スポーツチームのある地方の局への就職を目標にしており、大学卒業後は富山県のFMラジオ局からキャリアをスタートさせました。ラジオ番組の生放送が主でしたが、サッカーやバスケットボールチームへのインタビューなど、取材にもたくさん行かせて頂きました。富山で2年弱生活し、東京に戻ります。事務所に所属しますが2年で退所し、完全なフリーランスとなりました。東京に戻ってからの2年はバスケットボールにほとんど携わることができなかったのですが、2018年に女子バスケットボール、Wリーグの実況を始めることになりました。まさか自分が実況を担当するとは思いませんでしたが、そこからどんどんバスケットボールに携わる機会も増えます。男子のBリーグ、日本代表、学生など幅広い分野でお仕事ができて感謝しています。
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これから

― バスケットボールに並々ならぬ情熱を注がれてきた船岡さんですが、法人化することはいつ頃から考えていたのですか?
また、今後どういうことをやりたいですか?
 法人化は社会人になった時から漠然と思っていました。アスリートの支援をしたり、スポーツ教室や講演会を開いたりしたいな、と。そういったことに役立つかもしれないとアスリートフードマイスターの資格も取りました。その思いは今でもあります。ただ、東京オリンピックで自分のアナウンサー人生は一区切りだと思っていたので、実況アナウンサーとしての活動がここまで増えるとは、と自分でも驚いています。これからは実況も極めたいし、インタビューを通して選手や現場の声を広く届けたいという想いがあります。また、先にも述べたようにスポーツに特化した仕事にも興味があるので、これから勉強していきたいです。マネージャーの時に“一生懸命取り組んだら、こんなに素晴らしい景色が見られるのだ”ということを実感しました。あの時私は本当に、魂を捧げていたと思います。そのくらい強い思いを持ちながら、お仕事にも向き合っていきたいです。
 怪我をしなければマネージャーにはなっていなかったと思うし、マネージャーになっていなければアナウンサーにもなっていなかったと思います。色々なことが重なって、沢山のご縁と支えがあって今があります。私は、努力がすべて実るとは正直思いません、でも諦めずに続けることで見えるものは必ずあると思っています。バスケットボールはもちろん、これからも他のスポーツ、またスポーツに限らず様々な分野を勉強して【私だからできること】を追求していきたいです。

インタビュアー 中務彩夏

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